手段の目的化

先月の東大前殺傷事件は実に救いのない事件だった。これに関して先日興味深い話を聞いた。犯人の高校生は愛知の進学校の在籍で、高校からの編入組だったらしい。そこでは中学高校6年間通う「在来」組と、高校から入ってくる「編入」組とがいて、在来組は中学のときに高校1年のカリキュラムの大半を終えてしまっている。各地の中学の成績トップクラスだった秀才の編入組は最初の年に実力テストと称して大学受験クラスのテスト問題に晒されて人生でとったことのない点に直面する。つまりいったん鼻をへし折られる。編入はあくまで在来のカンフル剤。編入の奮起が在来の危機感をあおって云々。その編入組だった犯人の子は在来組との広がる成績格差に悩んでいたとかいう話。ま、そこまでは、仕組みとして褒められた話でないにしても全国の進学校にはよくある話。僕もそうだった。問題は「東大理3」という方向付けが異様に強かった、強すぎたということ。人間、高い目標も大事だが、身の丈で少しづつ頑張るということも大事。なぜ本人が「理3」に執着したのか、何が執着させたのか。彼がやったことは全て許せないが、何か考えさせる要素がたくさんありすぎる事件だ。自分の場合は、どこどこの大学に行けとかいうプレッシャーは皆無だった。なにせ親も大学出ではないし、親戚にもいない。大学がどんなところかわからない。なので当然どこの大学に、というオーダーも期待もない。今考えるとラッキーというか自由でよかった。僕たちが偏差値世代と言われた最初の世代だが、本来何かを成し遂げる手段であるはずの「大学進学」、それ自体がどんどん目的化する弊害はたぶん僕らの頃から綿々と続いている。

「船を造りたいのなら、材木を集めるために人を集めたり、彼らに仕事や作業を割り当てたりするな。彼らに海の無限の広さへの憧れを教えよ。」サン・テグジュペリ

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