為替の思い出
ドル円がついに1ドル140円台突入とニュースになっている。年初は115円くらいだったからすごい円安であることは確か。24年ぶりの出来事ということできょうの日経新聞には90年代後半の為替レートの推移がグラフで載っているがその前の80年代後半~90年代前半は狂ったような円高の時代だった。マツダに1984年の4月に入社して翌年の1月に輸出の本部に初任配属された。当時の為替レートは信じられないことだが250円前後。それがその年の9月の有名なプラザ合意というやつで一気に流れが変わった。猛烈な円高になった。当時、アメリカの輸入会社は商社との合弁、100%子会社ではなかったので、FOBを下げろと猛烈に言ってくる。FOBを下げると広島本社の採算にモロ響くので、現地の小売価格をちょっとづつ値上げしながら現地の輸入会社にも赤字を食わせるという無理ゲーを毎月ように繰り返していた。FOB調整の計算の仕事はもともと経理出身のおじさんがやっていた。作業が膨大なのでその人はお弁当を毎日2つ、お昼用と夜用を持ってきていた。傍からみてても恐怖の仕事だったが、その人が結果身体を壊しほぼ新人の僕に回ってきた。無理ゲーという言葉こそなかったが無理だと思った。しかし必要は工夫を生む。当時黎明期だった表計算ソフトを習い、為替前提を変えたらぱーっと計算できるロジックを時間かけてシコシコつくった。いまでは当たり前の話だが当時は算盤電卓の時代、表計算で仕事をするのは僕が初めてだった。おかげで無理難題にも比較的生産的に対応できたが、しかし為替は悪化し続けた。マツダでの僕の10年間はずっとそのことだけやっていたと言っても過言ではない。下のグラフを見ると一目瞭然だ。1985年を境に為替レートは断崖絶壁のように円高に突っ込んでいる。歴史的にも空前絶後だったのだ。外部環境をついつい悲観的に見るクセは生来の気質なのか、それともこの円高の期間に後天的に形成されたのか、いまとなってはわかっても詮無いことだが、なんか苦しかったよなーという思い出だけは脳裏にしっかり刻印されている。