朝三暮四

朝三暮四という言葉がある。中国宋の狙公という人が猿を飼っていた。とちの実を猿たちに朝に四つ、晩に四つ与えていたが、事情により一日に七つしか与えられなくなった。そこで、その猿たちに朝に三つ、晩に四つ与えると言ったら猿たちは怒った。代わりに、朝に四つ、晩に三つにすると言ったら大喜びしたという故事。目先の違いにとらわれて、結局は同じ結果になることに気づかないことの例えとして使われる。まぁ、その故事なら知ってるよという話で了解していた。ところが最近、内田樹という哲学者?エッセイスト?が著した「サル化する世界」(2020年刊)のエッセイがこの故事について論じている小論を読んで目から鱗な思いがした。内田樹いわく、「このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは他人ごとだと思っている。(中略)朝三暮四は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)のことであるが、自分さえよければ、他人のことはどうでもいいというのは自己同一性の空間的な縮減のことである。」という。内田いわく、人間はもともと目の前の現実にしかリアリティを感じることができない生き物だったと。他の動物とたぶん同じだ。うちのわんこも未来や夢を持っているとは思えない。しかし人間の知能は時間とともに発達し「時間」という概念を手に入れた。現実の目の前にはない過去や未来を伝承や文字で表現し思いを馳せることができるようになった。時空を超えた世界に思いを致しそこに切迫感を持てることを想像力といいそれは優れて知的な営みなんだと。それが人間が人間である所以であると。「サル化」というのは例えがちょっとアレだが言っていることには大いに共感するし賛同する。事業計画づくりでも「ありたい姿」ということをよく言うが、これって実はすごく難しいことを言っているのだということも同時に再認識した。目の前の現実が大変であればあるほど、時間意識は縮減する。たぶん誰もがそうだ。他方で、「時間意識の未成熟」という表現は含蓄が深い。成熟させることができるという点で希望もある。意外に深い「朝三暮四」。

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