出井さん

ソニーで社長、会長、CEOを務められた出井伸之さんが亡くなった。きのうはその訃報を知らないまま外出先から自宅に帰って妻から聞いて、思わず「えっ!?」と大きな声が出て、そのまま絶句してしまった。自分でも意外な反応と感情に襲われた。出井さんが役員14人抜きの抜擢で前任の大賀さんから指名され社長に就任したのは1995年。あらゆるメディアが痩身のかっこいい新社長をもてはやした。当時のソニーはスタミナハンディカムが大ヒットで業績もうなぎ上り、ハード全盛といっていい時代で出すもの出すものヒットして時代の寵児のような会社だった。ウインドウズ95が世に出てPCが家でも会社でも普及する時代、でもまだITという言葉はほとんど普及してなかったように思う。オンライン環境も皆無。いわばアナログ、ハードウエア全盛の時代。そんな中で出井さんはITとコンテンツとネットワークの時代になると言い始め、言い続けていた。僕がそのソニーに中途入社で入ったのが1998年の2月。時代の寵児、世界のSONYの一員になるという高揚感はいまも忘れられない。入社2ヶ月目の3月にはどういうことだか、バジェット会議で当時属していた「カンパニー」の末席スタッフとして、御殿山のNSビル6階のデカい役員会議室に入室を許され、そのとき初めて出井さんを見た。カッコよかった。テレビや雑誌で見たのと同じ人が生で眼前にいる。僕はそのとき普通のお上りさんだった。それから3年が過ぎ、どういうことだか、僕は本社NS6階の、会長社長直属の部署に異動になった。出井さんは会長になられて安藤国威さんが社長に就任されていた。あの出井さんと定期的にミーティングをし、ときには僕が出井さん安藤さんにプレゼンする、とんでもないところで働くことになった。別に出井さんを近くでいつも見れる立場ではなかったが、出井さん率いる当時のソニーが何を考え何に苦しみ何をやろうとしていたのか、そのことは事業部の末席にいるよりははるかにビビッドに感じられた。出井さんは結局業績不振の責任をとる形で2005年に退任されるのだが、僕がその本社時代の4年弱で観たのは、幕末動乱のような大きな軋みだった。そりゃそうだ。バリバリのモノづくりの会社、東京品川の一等地で半田ごてもって仕事する設計エンジニアばかりがいる会社で、ITだ、ネットワークだ、コンテンツだという別の星の話を持ちこんでも、はいそうですかとはならない。何よりソニーは上意下達の会社ではない。眩しすぎるSONYという北極星を皆が仰ぎ見て、自分なりのやり方でSONYに操を立てているような会社。ハードウェアの会社のマインドセットや組織文化を変えるのは並大抵ではない。というか普通無理だ。それでも出井さんは果敢に挑んでいった。井深、盛田、大賀という創業期の大物たちからソニー社長という大名跡を継承するのは当時無名だった出井さんにとってどんなにプレッシャーだったかと、当時の出井さんの年齢になったからこそ余計に思うが、臆せず、怯まず、あくまでもカッコよくダンディでクールに、自分のカラーとやり方で出井さんは挑み続けた。あれから四半世紀が経ち出井さんが言ってたように、ネットワークの時代、否、ネットワークしかない時代になり、出井さんがせっせと種を撒いて育てたゲーム、音楽、映画のエンタメ系事業はいまやグループの屋台骨だ。自社ではやりきれないとみるやとっとと通信総本山のエリクソンと組んでソニーエリクソンをつくったのも出井さん、ソニー銀行を始めたのも出井さん。ソニーのファイナンシャルセクターはいまや金融界の雄だ。そして何より、出井さんが社長会長の時代に40歳そこそこだった若き幹部の人たち、本社NSで出井さんに見いだされ活躍した人たちがいまや経営者としてソニーグループのグローバルビジネスを牽引している。「金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流。」というが、出井さんが遺した最大のものは「人」だと思う。自分で夢を設定し、それに果敢に挑戦する出井さんの姿そのものがお手本だった。そんな出井さんの至近距離で短い期間であったけどお仕事ができたということは、改めて僕の職業人生の最大の宝だったと思う。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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