内心の自由
秘書官の問題発言でまた岸田内閣が火だるまになっている。官僚の驕りだとか緊張感に欠けるとか遅れた日本の象徴だとか、火だるま状態に相応しい罵詈雑言が浴びせられている。公人の発言として文字にして読めば確かにそれ自体とても問題だろう。けれど、これは「オフレコ」取材の発言を毎日新聞が記事化したことが発端とされている。森喜朗のように公衆の面前でマイクに向かって自ら進んで女性蔑視発言をしたのとは全く訳が違う。あくまで「オフレコ」ルールの中で個人の内心を口にしてしまったわけで、むしろ記事にした毎日新聞はどうなのかと僕は思う。言ったことの当否、適否ではなく、個人の「内心」を了解なく公にしてその本人を「キャンセル」=なきものにするということが果たして本当に許されるのかという問題だ。内心の自由は憲法で保障されている。崇高な権利である。個人として内容はどうあれ「思っている」内容が問題にされるのなら、それはかつてのアメリカの「レッド・パージ」や中国の人民大革命での「総括」と大して変わらないではないか。現代の知性、ユヴァル・ノア・ハラリ氏はコロナ禍の最中、テクノロジーが強権国家をして内心監視を可能にしてしまう危機に警鐘を鳴らした。仮にある強権独裁国家が全国民に体温と心拍数を1日24時間休みなくモニタリングするリストバンド型センサーの着用を強要したとする。得られたデータは蓄積され政府のアルゴリズムが解析する。国民の1人1人がどんなコンテンツを見て何に反応し興奮したかがモニターされる。仮に北朝鮮で誰かがかの偉大なる領袖の演説の最中にリストバンドセンサーがその人の「怒り」の明確な徴候を検知したら、その人はたぶんその時点で一巻の終わりになるだろうと。内心が意図せざる形で暴かれるのはてとても危険であってはならないことだと思う。しかし、着火して火が噴き燃えさかるのを見たいだけの毎日新聞は自らルールを破ってこの秘書官の内心を記事にした。現に炎上中だ。実に破廉恥なメディアだと思う。