情報過多の中で空洞化する自分
一昨日放送されたクローズアップ現代「私の知らない「私の息子」~急増する闇バイト・“転落”の真相~」はすごく引きこまれる内容だった。成績優秀、たいした反抗期もなく親子関係も良好だった息子が、めでたく大学に進学して独り暮らしをはじめたたった数ヶ月の間に、あろうことか闇バイトに手を出し強盗に加担させられ挙句の果てに強盗の帰りに高速道路上で自動車事故死してしまうという話。かわいい、いい子だった息子を亡くしただけでも辛いのに、そのかわいい子が犯罪に加担していたという事実はとてもじゃないが受け止めきれないし受け入れることができない。そのお父さんはよくNHKにこのことを取材させたしご自身がカメラの前に出てきたなぁと思うが、見ていてとても辛かったし、本当にその心中は察して余りある。僕が講釈できる立場でもその知識もないが、いまのこの情報過多社会に生まれ育ってきた子たちは僕らの物差しではどうにもこうにも測れない世界に生きているということだけはこの番組をみていて強く思った。情報溢れるいまの時代、どうやって測ったのか知らないが、人は毎日、平安時代に生きていた人の一生分、江戸時代の人の一年分の情報を浴びているらしい。しかもその量はさらに増え続けている。処理能力を遥かに超えた情報に対して、それをスルーするかどうかの判断を秒感覚で行っているらしい。「判断」というが、それはほぼ直感だ。考えてはいない。そう、この「考えない」というのが問題で、熟考しないのはもちろん、善悪、正邪の価値判断、規範の判断もしていない、するように教わっていないのだと思う。まるでゲームのように正面から襲ってくる大波をいかにかいくぐるか。思い返せば僕の一人暮らしの大学時代はゲームはもちろんテレビも6畳一間の部屋にはなかったので、京都の山々を眺めながら本を読むか、友だちとしゃべるか、寝るか、しかなかった。大量の情報を浴びる環境はなかったし、「いかに生きるべきか」という考えても答えのないことをぼんやり考えていた。仕事もせず遊ぶわけでもなくある種のstandstill。ぼーっと立ち止まって考えるだけの高等遊民だった。そういう時代だった。ほぼほぼ不要不急のクソ情報を毎日大量に浴びつつその中を泳がざるをえない子たち。僕らの時代はもう絶対に戻ってこないし、そういう時代になっちまったんだから仕方ねぇじゃんというしかないが、こういう時代だからこそ、若い子はスマホを捨てて、旅に出たり本を読んだり、情報の量と反比例してどんどん空洞化する自分を充填することをあえてやらないといけない気がした。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230530/k10014079281000.html