命の値段

きのうの日経新聞朝刊の経済教室はなかなか考えさせる内容だった。中でも「コロナ死者数を1人減少させるためにどの程度の経済的犠牲を払いたいか」という試算は驚くべきものだった。この論考では「日本は約20億円、オーストラリアは約10億円で、米国の約1億円、英国の約0.5億円よりも高い。地域でも違いがあり、東京都・大阪府では約5億円だが、鳥取・島根両県では500億円以上だ。仮に1世帯の年収が500万円とすると、死者数を1人減らすために東京・大阪では年収約100年分、鳥取・島根では1万年分以上の犠牲を払いたいという価値観といえる」のだそうだ。こういう計算して何になる、人の命は地球より重いのだ、という考えもあるし、事実、僕自身、東京五輪の開催には反対の立場だった。この2年、世界中で感染拡大し、中でもUK・USAは甚大な損害を出しながらも経済を回し続けてきた。そういう人たちからみれば日本は結果してほぼ「ゼロ・コロナ」状態を実現している。特にいまはそうだ。ゼロだ。でも先週行った福岡の夜は信じられないくらい閑散としたものだった。その一方で飲食・旅館は事業継続のために莫大な借金を抱えてしまった。需要が戻ることを信じて、結果、返せないくらいの債務を負ってしまった。この問題の解決は徳政令しかないと、誰も表立って大きな声ではいわないが、多くの人がそう感じ始めている。それは文字通り巨額な国民負担だ。経済を止めてゼロコロナに向かった判断は間違っているわけではないけれど、果たして国民が自身の痛みと対価としてそれを考え支持したかというと相当怪しい。というか「絶対そうじゃない」でしょ。いまや財政はゴミ箱状態だ。なんでも財政出動。ドラえもんのポッケ以上に便利な道具と化しているが、いずれ答え合わせのときがやってくる。

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