男性学

最近は「嗚呼知らなんだー」の類を毎日書いている気がするが、きょうもそのひとつ。「男性学」というのがあるらしい、というか、あることを知った。男性学とは男性ゆえに抱えるさまざまな問題を研究する学問。男性に期待される「男らしさ」、例えば、「出世してひとかどのものにならなければならない」「何かを成し遂げねばならない」「一家を支えねばならない」「人前で泣いてはいけない」等々が問題だとして、もっと鎧を脱いで自分らしく生きようよという問題提起を行ってる。確かに男性、特に僕ら世代の男性は、母や、妻や、娘の、いろんな期待や言いつけを陰に陽に「感じ」つつ、それにこたえるべく、幼いころからずっと競争社会に身を置き、会社に滅私奉公して頑張ってきた人が多いように思う。先日ある大手企業の人事系の人に話を聞く機会があったのだが、いわく、定年が視野に入ってくる50代のシニアの中で自己肯定感のある人は、一定の役職までいったほんのひと握りで、役職定年/早期退職の導入など人事制度の大変更でこんなはずじゃなかったという不全感・恨み節を抱えた「こじらせシニア」がすごく多いらしい。知らず知らずのうちに人生を勝ち負けや優劣で捉える価値観のまま、会社という安全地帯をなくす定年後、不全感を抱えてずっと生きていくとしたら本当にもったいない。では「男らしさ」とは脱毛されるムダ毛のごとく要らないものなのか。僕自身、男性であり、確かに、母や妻の期待を背負って生きてきた気もするが、他方で、その母や妻の期待を豪快にひっくり返して敷かれたレールを突如離脱する選択もしてきた。「男性らしさ」が生きづらさの原因だとはどうしても思えない。「男性らしさ」は思考を制約するもののひとつの象徴的な例なのかもしれないが、要するに、男にせよ、女にせよ、自分はどうしたいのか、どう生きたいのかを、幼い頃から考え、主張し、選択する訓練を怠ってきたということではないのかなぁと思う。

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